1967年10月8日、京大生山崎博昭が殺された日、彼は福島の牧歌的な城下町で小学生であった。
成長したこの小学生は東大に入学し、機動隊に虐殺された山崎博昭の死を自己の実存に引き受けてたたかった作家の作品を読み漁った。
『悲の器』『邪宗門』『我が心は石にあらず』『憂鬱なる党派』『孤立無援の思想』『我が解体』etc,
彼がこの作家のどの作品をどのように読んだのかは分らない。
しかし彼は創刊して間もない写真週刊誌「フォーカス」1981年12月11日号に「82年度大蔵省新入りエリートの骨相――これが現代の秀才の標本箱」という記事に「この秋、大蔵省が採用を決定した役人のタマゴは27人」の一人として登場しこの作家を愛読したと明確に述べている。
大蔵省エリート官僚の道に踏み込んで行った25歳の彼佐川宣寿も、採用した大蔵省幹部もこの京大助教授であった作家の経歴を知悉していた筈である。
この作家は強く請われて1967年6月 京都大学文学部助教授に就任した、しかし1969年3月 大学闘争の最中、闘う全学共闘会議の学生側を支持して京都大学文学部助教授を辞職する。
そして1971年5月3日 39歳の若さで結腸癌のため東京女子医科大学病院で死去した。葬儀委員長は埴谷雄高であった。
そして1971年5月3日 39歳の若さで結腸癌のため東京女子医科大学病院で死去した。葬儀委員長は埴谷雄高であった。
財務省が森友学園との国有地取引に関する決裁文書を改ざんした問題で、参院予算委員会は20日、改ざん当時に同省理財局長だった佐川宣寿・前国税庁長官(60)の証人喚問を明日27日午前に行うことを全会一致で決めた。