昨夏亡くなった小尻みよ子さんが俳句を詠み始めたのは息子を失ったのがきっかけだった。
朝日新聞阪神支局の記者だった知博さんは1987年の憲法記念日の夜、支局に現れた何者かに撃たれた
▼みよ子さんは56歳だった。
〈幸福を一しゅんにして谷底に〉。
そんな言葉をチラシの裏などに記すようになった。
そうでもしないと耐えられなかった。
〈声も出ず唯(ただ)夢なれと足すくむ〉。
なぜ息子があんな目に遭うのか答えのない問いが胸でうず巻いた
▼〈帰ってよ奇跡おきれば帰ってよ〉。
季語はない。
切れ字もない。
思いをひたすら五七五に落とし込む。
〈あれほどに親子どんぶりねだりしに〉
〈明日無き身知らずと叱る母の胸〉。
悔いの波がいつまでも押しよせた
▼毎朝、夫と連れだって墓地に通い息子に語りかけた。
「おはようさん、知博さん。きょうは雨が降って冷たいね」
「一人で淋(さび)しいね。いまはお母さん何もしてあげられないでごめんね」。
墓は瀬戸内海に面した丘にたつ。
〈知博に会いに行く道今日も過ぎ〉
▼捜査は実らず、無念の時効を迎えた。
久しぶりに阪神支局を訪れたときは75歳。息子に招かれた気がした。
〈吾子(あこ)の座のソファー白線梅雨じめり〉。
倒れた際の頭部の位置に捜査員の引いた線が残されていた。
▼晩年は車イス生活が長かった。
夫に先立たれ、句の数も減った。息子のもとへ旅立ったときは84歳。
再会したいま、ねだられなくても、息子の好物だった親子どんぶりに腕をふるっていることだろう。
2016年5月3日朝日新聞