奉天(現・瀋陽)で満州建国会議が開かれた
「関東軍南無妙法蓮華経司令部」での記念撮影
中央でふんぞり返ってるのが我が関東軍司令官の本庄繁である。
ソ連軍が攻めてきた有事の時
女性や子供をほっぽり出して真っ先に
家族を連れて自分たちだけが逃げたあの破廉恥関東軍である。
1923年(大正12年)ドイツ
いい年をした大尉がアーチャリーを出迎えて舞い上がっている異様な光景はやがて来る異様な時代を暗示していた。狂っていたのはベルリンだけではなかったのだ。
高い税金で国費留学した34歳の帝国陸軍大尉が25歳世間知らずの南無妙法蓮華経ガキを「先生、先生」と言ってベルリンで追い掛け回す。
これが石原莞爾の、日本帝国陸軍の正体であった。
こういう男がやがて満州で何をするかは容易に想像が付く。
麻原天皇とオウム帝国の軍人どもが富士の裾野・上九一色村で作り上げようとしたものとまったく同じものだったのだ。
石原莞爾は大正8年(1919)4月15日、大尉昇進、中隊長となる。 大正10年(1921)7月20日、陸軍大学校兵学教官、 大正11年(1922)9月から軍事研究の為、ドイツ駐在。大正12年(1923)の正月からベルリンに居住している。莫大な税金を使って帝国陸軍のエリートとして研究のための軍事留学である。そうして1923年8月には歩兵少佐となるのである。
その日本皇軍のエリートが何をしていたかを知ったら、帝国臣民は脱力ものである。
グルのトッチャン坊やがドイツに来るのをベルリンで気が狂ったように待ちわびているのである。
この里見先生というのは田中智学の息子で大学を出たばかりの親の脛齧りである。それがヨーロッパに遊びに来る。その能天気なガキを「せんせい、先生」と呼ぶ情けないイヤラシサが帝国陸軍大尉石原莞爾の『日記』に立ちこめている。
4月4日付の日記。
- 合掌
里見先生ノ御手紙二対シ、早速返信ヲ認ム。近ク御渡来トノ事。特二法華経ノ独 訳二就キ小生ノ独乙語ノカヲカルトノ御話シ、ボーイ女中トスラ話シ得ザル目下ノ 有様、到底此ノ重任ノ一部スラ果ス能ワザルハ明瞭ニシテ実二汗顔ノ至リニ堪ユズ。
里見岸雄の来独をいそいそと待っている。
すでにドイツの近くまで来た7月、石原は連絡がないのでいらいらしている。
- 里見先生ヨリ未ダニ御手紙如何セシナラント心配シ、若シ大使館二手紙来り 居ルニアラズヤト尋ネ見シニココニモナシ、五月二十七日大阪発、先生奥様ヨリ先 生宛写真到着シアリ。日本ニテモ先生ハ今頃スデニ御入独ノ御予定卜考エ居ルモノ ト見ユ。
七月五日、里見先生ヨリ電報アリ。今日午后九時ベルリン御着トノ事、直チ ニ御迎エニ向ウ。
- 七月六日、先生予定ニヤヤ遅レテ御着。五日ハ先生卜同ジ宿-二泊。久シブ リニ種々法華経等ヲ承り愉快キワマリナシ。
田中智学の息子里見岸雄をベルリンに迎えた石原莞爾の歓待は異常である 。石原莞爾は34歳の帝国陸軍大尉、里見岸雄は25歳の大学を出たばかりの若造である。
日記の文章だけで再構成してみると、こんな毎日となる
七月八日。勤行法要ヲ終リテ直チニ先生ヲ御尋ネシ公園ナド散歩シ、午後用件ノ 為、友人訪問。
七月九日。昨日ノ新聞二借間ヲ求ムル広告ヲ出シクル為、今日ハ未ダ十分応募者 集り来タラズ。依テ先生ヲ御案内シテ、ワンゼー(湖畔)ニ遊ブ。眺望絶佳ノ料理 店ニテ葡萄酒ヲ抜キ、更ニモーターボートヲ湖上二浮べ半日ノ清遊ヲナシ後、小生 ノ宿ヲ先生ノ御覧二入レル。
七月十日。終日自動車ヲ飛バシテ先生ノ宿ヲ探ガス(下宿探ガシ)。中々御気二 入ルモノナシ。然シ宿屋(ホテル) ハ高価ナルノミナラズ、余り面白カラザルヲ以 テ明日中ニハ必ズ決定スル予定ナリ。
七月十一日。今日モ朝ヨリ自動車ヲ飛バシテ数軒ノ家ヲ見、遂こ夕方ヒトマズ落 着クべキ家ヲ定メラル。
七月十二日。御移転モ全部終了。今日ハタイピスト及語学ノ先生ヲ求ムルタメノ 新聞広告ヲナス。
七月十六日。昨十五日ハ先生ノ為、語学教師ヲ定ムル日ニツキ朝ヨリベルリンニ ュク。夕刻マデ数十人ノ応募者来ル。ソノウチ四名選定ス。暑サ甚シカリシガ夕刻 ヨリ暴風雨、遂こ先生ノ許二宿り、今日改メテ先生ノ「タイピスト選定」ヲ御手伝 ス。中々適当ノモノナク遂ニロシヤノ女二決定セリ。何分ドイツ人ニハ英語ノカ十 分ナルモノ少ナキこ閉口セリ。
七月二十日。午後ハ里見先生御来遊。約一時間舟ヲ漕ギ、夕食後御帰り。
8月へはいっても連日、里見岸雄との交友は能天気に続く。交友というより小間使いである。日記も妻への書簡以外は殆んどその記録である。1923年・大正12年といえばその前年、ワシントン軍縮条約で軍は追い詰められ、ソビエトでは遂に社会主義共和国連邦が成立し、国内では1922年株価が暴落、20年からの恐慌は底無しの不況を慢性化させていた頃なのである。我が帝国陸軍エリート大尉石原莞爾のパープリンは以後の皇国の運命を照らしていたとも言えるのであるが、、、。トホ
8月16日付の末尾に、
- 有島武郎氏ノ自殺。大ナル興味ヲ以テ見ル。凡テハ時代相ノ専キ犠牲ナリ。 本化ノ救イヲ要スルコト益々也。
何でもかんでも日蓮主義に結び付けるのである。
しかし、この男はベルリンでいったい何をやっているのだろうか。
石原莞爾は高い官費でドイツへ派遣されこれから、大尉から少佐へ進級しようとする帝国陸軍のエリート将校なのである。 しかも相手は去年、大学を出てヨーロッパヘ遊びにきただけの若僧ではないか。 軍事研究とは全く無縁、ただの日蓮結社の一つの信者拡大のために連日飛びまわっているのだ。
読むのも恥ずかしくなるような日記である。
「里見先生ノ御事業ノ事二関スル御相談ノ為、早朝ヨリ家ヲ出テ、ベルリンニ至り、 夕刻マデ先生ノ許ニアリ」〔八月十七日)、「イヨイヨ先生ノ本ヲ一冊独乙語二翻訳ス ル為メドイツ人ヲ一人探スコトニ定メ、終日躯ケ廻ル」(八月十九日)
石原莞爾は現在のように里見の下宿と隔たっているのが不便なので、八月二十九日
「新シキ宿ヲ決定ス。先生ノトコロヨリ二丁バカリ、五階(最上階)」へ引っ越したの である。すでに里見と共同で日蓮主義「手引き喜」のドイツ語版の作製にとりかかっ ていた。「仕事ノ進捗ハカバカシカラズ。然シ今週クライニテ第表ノ翻訳ヲ終り得 べシ。九月中旬迄ニハ印刷ヲ完了シ得ンカ。日蓮主義運動史上、特筆大書スべキ仕事 也。愉快極マリナシ」(八月三十日)意気天を衝く勢いである。る。
1934年(昭和9年)9月18日
石原莞爾参謀が立案し河本中尉と小杉軍曹が
柳条湖の鉄道を爆破した地点
いい年をした大尉がアーチャリーを出迎えて舞い上がっている異様な光景はやがて来る異様な時代を暗示していた。狂っていたのはベルリンだけではなかったのだ。
高い税金で国費留学した34歳の帝国陸軍大尉が25歳世間知らずの南無妙法蓮華経ガキを「先生、先生」と言ってベルリンで追い掛け回す。
これが石原莞爾の、日本帝国陸軍の正体であった。
こういう男がやがて満州で何をするかは容易に想像が付く。
麻原天皇とオウム帝国の軍人どもが富士の裾野・上九一色村で作り上げようとしたものとまったく同じものだったのだ。
石原莞爾は大正8年(1919)4月15日、大尉昇進、中隊長となる。 大正10年(1921)7月20日、陸軍大学校兵学教官、 大正11年(1922)9月から軍事研究の為、ドイツ駐在。大正12年(1923)の正月からベルリンに居住している。莫大な税金を使って帝国陸軍のエリートとして研究のための軍事留学である。そうして1923年8月には歩兵少佐となるのである。
その日本皇軍のエリートが何をしていたかを知ったら、帝国臣民は脱力ものである。
グルのトッチャン坊やがドイツに来るのをベルリンで気が狂ったように待ちわびているのである。
この里見先生というのは田中智学の息子で大学を出たばかりの親の脛齧りである。それがヨーロッパに遊びに来る。その能天気なガキを「せんせい、先生」と呼ぶ情けないイヤラシサが帝国陸軍大尉石原莞爾の『日記』に立ちこめている。
4月4日付の日記。
- 合掌
里見先生ノ御手紙二対シ、早速返信ヲ認ム。近ク御渡来トノ事。特二法華経ノ独 訳二就キ小生ノ独乙語ノカヲカルトノ御話シ、ボーイ女中トスラ話シ得ザル目下ノ 有様、到底此ノ重任ノ一部スラ果ス能ワザルハ明瞭ニシテ実二汗顔ノ至リニ堪ユズ。
里見岸雄の来独をいそいそと待っている。
すでにドイツの近くまで来た7月、石原は連絡がないのでいらいらしている。
- 里見先生ヨリ未ダニ御手紙如何セシナラント心配シ、若シ大使館二手紙来り 居ルニアラズヤト尋ネ見シニココニモナシ、五月二十七日大阪発、先生奥様ヨリ先 生宛写真到着シアリ。日本ニテモ先生ハ今頃スデニ御入独ノ御予定卜考エ居ルモノ ト見ユ。
七月五日、里見先生ヨリ電報アリ。今日午后九時ベルリン御着トノ事、直チ ニ御迎エニ向ウ。
- 七月六日、先生予定ニヤヤ遅レテ御着。五日ハ先生卜同ジ宿-二泊。久シブ リニ種々法華経等ヲ承り愉快キワマリナシ。
田中智学の息子里見岸雄をベルリンに迎えた石原莞爾の歓待は異常である 。石原莞爾は34歳の帝国陸軍大尉、里見岸雄は25歳の大学を出たばかりの若造である。
日記の文章だけで再構成してみると、こんな毎日となる
七月八日。勤行法要ヲ終リテ直チニ先生ヲ御尋ネシ公園ナド散歩シ、午後用件ノ 為、友人訪問。
七月九日。昨日ノ新聞二借間ヲ求ムル広告ヲ出シクル為、今日ハ未ダ十分応募者 集り来タラズ。依テ先生ヲ御案内シテ、ワンゼー(湖畔)ニ遊ブ。眺望絶佳ノ料理 店ニテ葡萄酒ヲ抜キ、更ニモーターボートヲ湖上二浮べ半日ノ清遊ヲナシ後、小生 ノ宿ヲ先生ノ御覧二入レル。
七月十日。終日自動車ヲ飛バシテ先生ノ宿ヲ探ガス(下宿探ガシ)。中々御気二 入ルモノナシ。然シ宿屋(ホテル) ハ高価ナルノミナラズ、余り面白カラザルヲ以 テ明日中ニハ必ズ決定スル予定ナリ。
七月十一日。今日モ朝ヨリ自動車ヲ飛バシテ数軒ノ家ヲ見、遂こ夕方ヒトマズ落 着クべキ家ヲ定メラル。
七月十二日。御移転モ全部終了。今日ハタイピスト及語学ノ先生ヲ求ムルタメノ 新聞広告ヲナス。
七月十六日。昨十五日ハ先生ノ為、語学教師ヲ定ムル日ニツキ朝ヨリベルリンニ ュク。夕刻マデ数十人ノ応募者来ル。ソノウチ四名選定ス。暑サ甚シカリシガ夕刻 ヨリ暴風雨、遂こ先生ノ許二宿り、今日改メテ先生ノ「タイピスト選定」ヲ御手伝 ス。中々適当ノモノナク遂ニロシヤノ女二決定セリ。何分ドイツ人ニハ英語ノカ十 分ナルモノ少ナキこ閉口セリ。
七月二十日。午後ハ里見先生御来遊。約一時間舟ヲ漕ギ、夕食後御帰り。
8月へはいっても連日、里見岸雄との交友は能天気に続く。交友というより小間使いである。日記も妻への書簡以外は殆んどその記録である。1923年・大正12年といえばその前年、ワシントン軍縮条約で軍は追い詰められ、ソビエトでは遂に社会主義共和国連邦が成立し、国内では1922年株価が暴落、20年からの恐慌は底無しの不況を慢性化させていた頃なのである。我が帝国陸軍エリート大尉石原莞爾のパープリンは以後の皇国の運命を照らしていたとも言えるのであるが、、、。トホ
8月16日付の末尾に、
- 有島武郎氏ノ自殺。大ナル興味ヲ以テ見ル。凡テハ時代相ノ専キ犠牲ナリ。 本化ノ救イヲ要スルコト益々也。
何でもかんでも日蓮主義に結び付けるのである。
しかし、この男はベルリンでいったい何をやっているのだろうか。
石原莞爾は高い官費でドイツへ派遣されこれから、大尉から少佐へ進級しようとする帝国陸軍のエリート将校なのである。 しかも相手は去年、大学を出てヨーロッパヘ遊びにきただけの若僧ではないか。 軍事研究とは全く無縁、ただの日蓮結社の一つの信者拡大のために連日飛びまわっているのだ。
読むのも恥ずかしくなるような日記である。
「里見先生ノ御事業ノ事二関スル御相談ノ為、早朝ヨリ家ヲ出テ、ベルリンニ至り、 夕刻マデ先生ノ許ニアリ」〔八月十七日)、「イヨイヨ先生ノ本ヲ一冊独乙語二翻訳ス ル為メドイツ人ヲ一人探スコトニ定メ、終日躯ケ廻ル」(八月十九日)
石原莞爾は現在のように里見の下宿と隔たっているのが不便なので、八月二十九日
「新シキ宿ヲ決定ス。先生ノトコロヨリ二丁バカリ、五階(最上階)」へ引っ越したの である。すでに里見と共同で日蓮主義「手引き喜」のドイツ語版の作製にとりかかっ ていた。「仕事ノ進捗ハカバカシカラズ。然シ今週クライニテ第表ノ翻訳ヲ終り得 べシ。九月中旬迄ニハ印刷ヲ完了シ得ンカ。日蓮主義運動史上、特筆大書スべキ仕事 也。愉快極マリナシ」(八月三十日)意気天を衝く勢いである。る。
1934年(昭和9年)9月18日
石原莞爾参謀が立案し河本中尉と小杉軍曹が
柳条湖の鉄道を爆破した地点
| 「、、、しかし最終戦争は実に人類歴史の最大関節であり、このとき、世界に超常識的大変化が起るのである。今日までの戦争は主として地上、水上の戦いであった。障害の多い地上戦争の発達が急速に行かないことは常識で考えられるが、それが空中に飛躍するときは、真に驚天動地の大変化を生ずるであろう。空中への飛躍は人類数千年のあこがれであった。釈尊が法華経で本門の中心問題、即ち超常識の大法門を説こうとしたとき、インド霊鷲山(りょうじゅせん)上の説教場を空中に移したのは、真に驚嘆すべき着想ではないか。通達無碍の空中への飛羅は、地上にあくせくする人々の想像に絶するものがある。地上戦争の常識では、この次の戦争の大変化は容易に判断し難い。、、、」 「最終戦争論・戦争史大観」石原莞爾 トホホである。 最終戦争論、だって、、、、、論じゃねえだろうが莞ちゃん、、。 出来の悪い子供用アニメの脚本かインチキ宗教のパンフレットに書かれているようなシロモノである。こんなトホホオヤジが日本皇軍の中枢にいたのである。こんなもんに多くの若者たちが転がされたのである。 『世界最終戦論』増訂版・新正堂・昭和17年(1942) 一握りの卑しい軍需利権屋に操られて民族だとか愛国だとか喚きながら国旗などというボロキレを振り回すような引き篭もりの赤ん坊があの時代を主導した男たちの正体だった。そして彼らの末裔もまた平成の今、国境ひとつ越えられない幼稚なストーカーとして増殖を続けているのだ。 | ||
■昭和6年9月19日奉天占拠 東洋拓殖奉天支店に関東軍司令部を移転 支那事変の初期、武藤章が石原莞爾に言った 「あなたが満州でしたことと同じことをを行っているだけです」 命令されれば黙って引き鉄を引くような軍人という破廉恥職業を選んだ男たちの「道徳」がどういうものであったかを全てを知悉した関東軍参謀田中隆吉が雄弁に語っている。 『敗因を衝く 軍閥専横の実相』(中公文庫)田中隆吉 満州事変発生以後特に三国同盟前後より観念右翼の跋扈ははなはだしかった。 彼らの多くは口に天下国家を論ずるも、概ね時の権勢に阿付迎合してその衣食の資を稼 ぐを常とする。故に一定の職を有せずして、自ら浪人と称する彼らの私生活は意外に豪奢 である。そのあるものは常に羽二重の五つ紋の羽織を纏って白昼堂々と大道を闊歩する。 口を開けば国家の安危を語り、意に充たざるものあるときは脅喝と殺人をもあえて辞せぬ」 「日中戦争特に三国同盟の成立以後においては、彼らの多くはわが国の政治経済の実権を 掌握せる軍部に近づき、これに阿付迎合した。彼らの衣食と運動の資金は概ね軍あるいは これと連絡ある実業家の手によりて供給せられた」 「大東亜戦争の勃発に際し、軍部の内意を受けて、無知にして善良なる国民を煽動せるも のは主として彼らであった。中にはドイツ大使館より莫大なる黄金を運動資金として提供 せられたるものもあると伝えられる」 「内地における観念右翼に比し、さらに悪質なるものは大陸に進出せる右翼である。彼ら が一部の政治軍人と結託して中国民衆を搾取し、その私服を肥やせることは天下周知の事 実である。中には巨万の富みを蓄えたるものすらあるとの噂もある。口を開けば天下国家 を論じ、定まれる職なくして巨万を蓄え得るとすれば、かって何人かが「乞食と右翼商売 は三日すれば止められぬ」と皮肉った言葉は、けだし適評と言わねばならぬ」 2002年の現在も 軍隊という「公務員暴力装置」は 利権の拡大に奔走している。 「軍隊は国民など守らない。」(作家・目取真俊) 予算分捕り詐偽を手伝ってくれと メモまで作ってアメリカ軍に頼みに行った。 2002・5・6 ■海幕、米軍に裏工作 イージス艦派遣、対日要請促す 4月に幹部「対イラク戦の前に」 防衛庁海上幕僚監部(海幕)の幹部が4月10日、在日米海軍のチャプリン司令官を横須賀基地に訪ね、海上自衛隊のイージス艦やP3C哨戒機のインド洋派遣を米側から要請するよう働きかけていたことがわかった。米政府がその後日本側に持ちかけた派遣要請の裏側に、海幕幹部の工作が存在した形になる。米軍支援をめぐる制服組の独走ともいえる事態で、文民統制(シビリアンコントロール)の危うい現状が浮き彫りになった。連休明けの有事法制関連法案の国会審議にも影響を与えそうだ。 日米双方の安保関係筋によると、海幕幹部は4月10日の在日米海軍司令官との面談で、テロ対策特措法に基づく協力支援活動を5月19日の期限切れ後も延長する方針を前提に、米側から次の3項目を日本側に要請するよう、準備したメモ書きにそって促した。 「海自イージス駆逐艦は警戒監視能力に優れ、米海軍との情報交換分野で相互運用性(インターオペラビリティー)が強化できるので派遣を期待する」 「捜索救難の分野で高度の水上監視能力を持つ海自P3C哨戒機による支援を期待する。もしディエゴガルシア島近辺に来てもらえれば大いに評価する」 「海自補給艦2隻のインド洋展開をできる限り長く維持してもらえれば非常に喜ばしい」 米軍事筋はまた、この海幕幹部が働きかけの理由として「仮に米軍が対イラク開戦に踏み切ってしまってからでは、イージス艦やP3Cの派遣は難しくなる。何もないうちに出しておけば、開戦になっても問題にならないだろう」と説明したことも明らかにした。 これに対しチャプリン司令官は「(権限を越えるので上級の)太平洋艦隊司令官に伝える」とだけ答えたという。 イージス艦とP3Cをめぐっては、4月16日にワシントンで開かれた審議官級の日米安保事務レベル協議(ミニSSC)開始に先立つ折衝で米側から非公式な派遣打診があった。同29日にはワシントンを訪ねた与党3党の幹事長に対し、ウォルフォビッツ国防副長官が派遣要請した。いずれの場合も日本側は否定的に反応している。 在日米海軍司令部報道部は、司令官と海幕幹部との面談内容に関する朝日新聞の取材に対し、直接には答えず、「反テロ戦争に向け日本政府が提供してきた死活的な支援について米海軍は心から評価している。日本が行う貢献は日本政府が決めることだ」との最近の司令官発言を紹介した。 ◆積極的には言ってない 香田洋二海上幕僚監部防衛部長の話 イージス艦は標的情報を取ってコンピューターで処理する精度では普通の護衛艦とそれほど変わらない。しかし、多くの標的情報を同時処理し、情報図として書き出す能力が抜きんでている。作戦を楽にし部隊防護能力を強くするから、問われれば出させてもらいたいと答えている。しかし、積極的に、出させてもらわないと困ると言ったことはない。 2002・5月の読売記事の一部。 ニクソン大統領(アメリカ政府)のテープ500時間分の中に 軍事同盟の本音があった。 「、、日米安保体制は日本に対するにらみを利かせるものである。」 つまり 日本とアメリカの軍事屋は日米安保体制という利権のために 日本国民を永久に封じ込め資金を吸い上げる同盟を堅持する、ということだ。 戦後、多くの皇軍幹部と同じように石原莞爾は豹変する。 平和と民主主義の巨大な潮流を嗅ぎ取った結果であった。 中国何応欽将軍に宛てた石原莞爾の詫び状 拝啓 日本降伏後稲葉氏に御托しの芳書拝読深く感激致し候 敗戦日本の現状は天刑により日に日に惨状加へ居り候も 我等の同志は此機会に全て正しき日本を建設し 東亜の再興に寄興することのみが 貴国始め東亜諸国に対し犯せる大罪の万分の一を償ふの道と存じ候 将来一層の御指導を賜り度御願申上候 敬具 昭和二十二年二月二十五日 石原莞爾 何将軍閣下 執事 蒋介石への詫び状 拝啓 未だ拝顔の栄を得ず、而も今次世界動乱の起因と相成候満州事変の重大責任者の身を以て一書拝呈し候非礼、平にご海容賜わり度く候。 事変を契機とし、日本の貴国に対する態度を根本的に改め、両国の公正なる提携を実現致し度く努力し、日華事変勃発後は国民より相当の支持を得るに至りしも、微力遂に破局を防止し能はざりし事、誠に慙愧の極に御座候。敗戦後は同志一同貴国を始め東亜諸民族に対し、日本の犯せる大罪を懺悔しつつ、真に正しき平和日本の建設に励め度、具体的活動を開始し、国民の大なる共鳴を獲得せしも、日本占領軍当局の理解を得る能はずして今日に及び候。 然し我等は至誠一貫目的の達成に邁進すべき所存に御座候。降伏後、主席閣下の日本に対し示されたる高き道義に徹せる寛容無比の御態度は八千万国民の感激措く能はざるところに御座候。 将来共一層の御指導御鞭撻を賜り度伏して奉悃致候。 敬白 昭和二十二年二月二十五日 石原莞爾 蒋介石主席閣下 執事 昭和23年11月24日石原莞爾は山形県飽海郡高瀬村の自宅で東亜連盟協会代表等を相手に対談した。 16m映写機で写したフィルムには「新憲法」の前文、第9条の「戦争抛棄」「非武装中立」をそのまま読み上げたような発言がある。 石原は言う「…日本は蹂躙されてもかまわないから、われわれは絶対、戦争放棄に徹して生きて行くべきです。ちょうど聖日蓮が竜の口に向かって行くあの態度、キリストが十字架を負って刑場に行く時の、その態度を、われわれは国家としてとらなければならない…」。 昭和23年、1948年という年は未だ日本に「新憲法」の前文、第9条の「戦争抛棄」「非武装中立」の機運が充満していた。日蓮やキリストを持ち出すところが相変わらずのDOキュンではあった。
ついでだが いい加減だったのは靖国神道や日蓮カルトだけではなかった。 カトリック・バチカンも軍部や右翼団体の脅迫にあっという間に屈して原則は曲げるわ屁理屈を付けて満州国を承認するわ、リットン調査団にまで皇軍とグルになって文句つけた。侵略された人間のことなどまるで思いもつかない神さんだったのだ。 真相は不明だが靖国神社参拝拒否事件なるものは昭和7年5月5日に上智大学で起ったとされる、類似の「ミッション・スクール排斥事件」は枚挙に暇がなかった。当日配属将校の北原一視大佐が学生を引率して靖国神社参拝と遊就館見学を行なつた際、カトリック信者の学生二名が参拝をしなかった。護国の英霊に背を向けるとは国辱者と槍玉にあげられかねない行為ですが、案の定、十月一日付け「報知新開」が告発、十月十四日の「読売新聞」には「″軍事教練に背く〃と配属将校引き揚げ決意、上智大他二校に対して軍部憤激、文部省狼狽」と報じた。五か月以上経過した時点で日付の明示もない”事実″がなぜ「事件」となるのかは不可解だが、とにか〈、「在郷軍人会、国粋主義的団体、一部の神官僧侶まで一体となつたキリスト教批判に発展、皇道派の荒木貞夫陸軍大臣は「カトリック、否、仝キリスト教そのものが日本の国体と相容れない邪教である。その信者やその活動である学校経営は反国家的である。日本を外国に売る売国奴である。外人教師や宣教師等はそれぞれの国から派遣されたスパイである」と発言する事態となった。実際、陸軍省は十二月七日に上智大学・暁星中学から配属将校の引き揚げを敢行、昭和八年十二月二十一日に新しい将校が配属されるまで、混迷は続いた、しかし最後はバチカンが禁じられている「偶像崇拝」や「異教の行事に与する。」という大原則を曲げて日本軍部に擦り寄ったのである。 ホントに神さんの承認取ったのかよ、と言いたくなるバチカン教皇庁の満州国承認の書簡である。 「満州帝国外交部大臣閣下 以書翰啓上致候 陳者先般書林教区長ガツペ(A.Gaspas)司教貴部訪問二際シテハ閣下ノ懇切ナル脊遇ヲ蒙り・・・旨同司教ヨリ報告ノ次第有之玄ニ本官ガ其ノ才能手腕ヲ信頼シ在満州国全司教ヲ代表シ天主教伝道二関スル宗務掌理方ヲ任命シタルガツペ司教二示サレタル閣下ノ御厚情二対シ衷心感謝卜満足ノ意ヲ表シ候 ・・右申進旁々本官ハ慈ニ閣下ニ向カッテ深甚ノ敬意ヲ表シ候 一九三四年八月二日 於羅馬 教皇庁布教聖省長官 枢機卿 F・ビオンディ」 傀儡政権の謝介石外交部大臣は康徳元(一九三四)年九月一一日付の答翰を送るとともに、同月二八日、沈宮内府大臣、吉澤新京領事、神吉外交部政務司長他、日満要人と共に、ガスペ駐満教皇庁臨時代表他教会関係者をヤマト・ホテルに招宴したのである。 げに、満州とは好き勝手に「神社」や「カトリック」や「法華経」のぬいぐるみを被った、無責任でヘタレな利権屋どもが目の前にぶら下がった他人のニンジンに、殺到したところだったのだ。その泥棒人間たちの手先となって先頭を突っ走ったのは他ならぬ破廉恥な神だったのである。 「ハルマゲドンと日蓮信者である石原完爾の最終戦争論の対比」「ハルマゲドンと大闘諍論の相違」「麻原のハルマゲドン論と宗祖の末法の法華経的証明の相似性について」などを明らかにしていけば、大日本帝国とオウム帝国が親子の関係にあることが分かるだろう。 「創価・靖国有事法平成奴隷体制」と若者たちが看破する現在は、まさに狂った帝国の地続きの果てなのである。 |


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