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腐敗を極めていた日米安保自民党の戦後体制に真正面から闘いを挑んだ若者たちが東大安田講堂、神田解放区を初め各地で数万の機動隊と激突していた数日後、1969年1月、東京五輪開会式作曲担当のミュージシャン小山田圭吾が東京で生まれている。
奴隷の再生産が永続する鉄壁のシステムに若者たちが真っ向から闘いを挑んだ時代であった。
あの時代、路上を埋めた若者たちが勝利し、満州侵略の出っ歯が主導する腐敗自民党政府に日教組が勝ち抜き、戦前からの腐敗構造を叩き潰していたら、
そういう輝かしいたたかいの成果が遍く社会を覆っていたら、1969年生まれの小山田圭吾少年が憎悪を弱者に向けて行く1980年代15歳の蹉跌の陥穽に堕ち込むことはなかった。

暗い目でいじめを繰り返した15歳の少年圭吾は無人島の池の中から生み出されたのではない、
狂った社会が狂った時代を廻し狂った若者を生んだのだ。

1964年東京オリンピックの観戦記を書いた歴史小説家杉本苑子は「二十年前のやはり十月、同じ競技場にわたしはいた。・・出征して行く学徒兵たちを秋雨のグランドに立って見送ったのである。」と書いた。
朴訥であった農家の若者たちがイカれた教祖と巨大な軍事経済によって侵略強盗殺人の犯罪者に変えられていく時代の凶暴を歴史小説家杉本苑子は航空自衛隊のブルーインパルスが五輪マークを描き出す醜悪な光景の中に視ていたのである。

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小山田圭吾が生まれた数日前の成人式1月15日に「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」という哀切な日記を書いた聡明な女性が自死したのは圭吾の誕生日の約半年後である。
その頃、
子供たちを社会の荒廃から、子供たちを教育の荒廃から、子供たちを精神の荒廃から組織を上げて守ろうと闘って来た日本教職員組合(日教組)は腐敗自民党・腐敗財界・安保軍事体制の総攻撃を受けて敗退しつつあった。

腐臭を放つ軍事屋の強権社会が完成に向う1980年代、子供たちが荒廃させられた精神と腐敗社会の坩堝から生み出されて行った。
小山田圭吾の1980年代はそういう時代に規定されていた。

きょう夕方、
東京五輪・パラリンピック組織委員会は「組織委員会は小山田氏の行為は断じて許されるものではないと考えますが、先日、本件についての反省とお詫びを受け入れ、開会式が迫っているなか、引き続き準備に努めていただくことを表明しました。これは誤った判断であると考えるに至り、辞意を受け入れることにいたしました」と、辞任を受理したことを発表した。 (この項続く)